- 2004年06月09日
- LNG船よもやま 第5回 堅実なパイオニアたち
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シカゴストックヤーズ社のLNGバージ「メタン」は失敗に帰した。しかし、LNG船の障壁の高さがわかった。これが収穫であった。
また、人々が「メタン」に示した関心の高さからも、将来のLNG船需要を察知できた。W.W. プリンス氏は迷わず開発の続行を決めた。
しかし更なるLNG船開発の負担は、食肉会社には重すぎた。彼は、関心をよせる石油会社コノコと合弁で1955(昭和30) 年にコンストック社を設立し、新進の船舶設計会社J.J. ヘンリー社にLNG船開発を委託した。このときから石油会社と造船屋が係わり、 「夢のLNG船」を実現する。
一方で戦後のイギリスは、 石炭ガスの供給不足・コスト高に長く悩んでいた。政府(ガス局)は詳細検討のすえにLNG導入を選択し、 1957(昭和32)年にコンストック社との間でLNG船の共同開発を決断した。
開発者たちの課題は、「メタン」の失敗をいかに克服するかであった。
彼らは先ず、防熱パネル表面の損傷対策として、液密の「薄膜」を張り付けることを考えた。後にいう「メンブレン方式」である。
次の案は「独立タンク方式」。これはLNG積載専用の「置きタンク」を船倉に据え付ける方式である。 加圧式LPGタンクや機関室内置きタンクのように、船にはよくあるタンクである。
彼らは総額190万ポンド(当時の19億円)でLNG船の建造・実験航海をするのだから、失敗はできなかった。特にイギリスは、公聴会で 「高額の危険船」に対して学識経験者たちに猛反対され、それを押しきって敢えて国家予算で半額の95万ポンドを投じるのだから、 失敗は許されなかった。
メンブレン方式を早くも発想したが、薄膜をパネル表面に張り付けて液密を保持し熱伸縮対策を施すのは、 在来の造船技術とはあまりにも異質で、不確定要素が多すぎた。まだ、メンブレン方式の時は満ちていなかった。
独立タンク方式のほうは船体と同じ「板骨構造」で、設計建造の不確定要素は少なかった。課題はタンク材料であったが、 メーカがアルミニウム合金とその溶接の開発にちょうど成功した。四角(方形)の船倉形状にあわせて方形タンクとした。造船屋たちは「いける! 」と手応えを感じた。
こうして、アルミニウム合金の独立方形タンクという最も堅実な方式が採用された。防熱は「メタン」と同じバルサパネルとされた。これに、 これだけに「メタン」が役立った。二次防壁は堅木(サトウカエデ)合板とされた。
全長103mの船尾機関型の戦時標準船を、5,100m3のLNG船に改造した。改造のほうが新造より安く工期短縮ができた。 世界最初のLNG船の建造には予期しない困難が続いたが、すべてを克服して1959(昭和34)年初にアラバマ造船所で竣工し、「メタン・ パイオニア」と命名した。
「パイオニア」は、ただちにルイジアナ州レイク・チャールズからテームズ河口のキャンベイ島まで大西洋横断のLNG輸送を行い、 狙いどおりに堅実な成功をとげた。歴史を変える船、歴史に残る船の誕生であった。
「パイオニア」に勢いをえて、ガス局はアルジェリアとLNG売買契約を結んで、それに必要なLNG船2隻の建造を進めた。「パイオニア」 を評価したシェル社は、コンストック社と合弁でコンチ社を設立した。
改良を加えた「コンチ方形タンク方式」の27,400m3商用LNG船「メタン・プリンセス」級2隻が、1964(昭和39) 年10月にイギリスで竣工してLNG輸入を始めた。輸入基地もキャンベイ島に建設された。こうしてLNG船時代が幕を明けた。 このとき日本は国中が「東京オリンピック」に浮かれたが、欧米では造船海運・ガス業界が「LNG船」に沸いたのである。
LNG船開発を成しとげたのは、アメリカのコンストック社とイギリス政府である。 前者はLNG船の将来ニーズを見通して先端技術に取りくみ、先駆者として特許を独占して、世界制覇をめざした企業であった。 (コンチ社はLNG船の開発・設計・建造・運航の間にえた技術をすべて特許にし、その数は何と500件にものぼった。)
後者は国内に豊富な石炭からガスを増産すれば、供給はできたであろうが、コスト高は解決できない。 何とかしてガスコストを低減して国民の生活費と工業製品コストを切り下げようと、LNG船開発を敢えて決断した政府であった。「お役人」 のこれほどの政策決断は、すばらしいではないか。
LNG船開発、これは企業の野望と政府の決断がみごとに合体した「プロジェクトX」であった。20世紀全体を見わたしても、 技術障壁の高さと開発の与えた効果の両方で「シップ・オブ・ザ・センチュリー」である。
(糸山 直之)
「メタン・パイオニア」のタンク建造 (SIGTTO Newsletter, 2003年3月)
